瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても 末に逢はむとぞ思う
悲劇の天皇も、上流階級のならいとして、せっせと恋の歌を詠んでいたのですね。
平安時代末期の保元の乱で敗れた作者の崇徳院は、怨霊になったという話のほか、落語の「崇徳院」でこの歌が登場して、こっけい話を回していきます。
この歌が使われたのは、百人一首で知られていただけではなく、この噺が作られた当時の人たちには通じた何かがあったからのような気がします。